Title

タイトル写真は、私では、ありません。

かつて一緒に辛酸を味わった上司です!


海外出張のためと、会社からパスポートを取らされたものの初めて海外へ行ったのはプライベートでした。

その後、海外出張もなくしめしめと思っていたら怒涛の如く海外出張の波が。

 

異国見聞録:中国でのお仕事

 

初めての海外出張


新潟県某所へ国内出張中に一本の電話がありました。
『中国へ出張してくれるかな?』
『いつですか?』
『明日。』
『.....』

そして、翌日の夜には、上海から昆山へ向う自動車の中にいるのでした。

 

某 合弁会社

 

昆山という街


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昆山のタクシー

昆山という街は、上海から自動車で1時間半程、内陸に入った所です。
名所、旧跡というのは特になかったように思います。
百年前から営業しているラーメン屋という店が、唯一のおすすめスポットのようですが、地元の女の子に聞いたところ、最近出来たというような事を言ってました。
(中国語がわからないため詳細不明)
実際、食べにいってみましたが、あまり美味しくありませんでした。

紙屑になった航空券


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白衣を着て作業するワーカー

3回目の出張は、河原で凧上げをしている少年たちを見かける1月3日からでした。
予定では、3泊くらいだったのですが....

「明日のUAで帰国なんですけど。」
「なに言ってるの?打合せはあさってだよ!!」
「....」

そして、翌日のお昼には、我々(仕事仲間)を昆山に残し、飛行機は成田へと去ってしまいました。
手元に残った航空券は、変更不可のチケットの為、ただの紙屑になってしまいました。

急に出張期間が延び、いつ帰れるともわからず不安な日々を過ごしていましたが、追い討ちをかけるように、所持金が残り少なくなり、遂に現地人が飲み食いする安いレストランに足を運ぶようになりました。
(幸いなことに、食中毒にはなりませんでした。)

ようやく開放され成田へ向かう飛行機の中で出された機内食は、もう見るのも嫌だった 中華料理(上海やきそば)でした。

成田から上野へ向かう京成から見た景色の中にはもう凧上げをしている少年の姿はありませんでした。




極寒酷暑


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プレス作業をするワーカー

昆山という所は、緯度的に九州の鹿児島と同じくらいの所なので温暖な気候を想定していたのですが、現地へ行って自分の思い込みの間違いに気づきました。

冬に出張した時は、ホテルの暖房事情もあまり良くなかったこともありますが、とにかく寒く、隣のベッドのベッドカバー、毛布、シーツ等をひっぱがし、それらにくるまって寝ていました。
また、休日などは、体を内部から温めようと朝食時からウイスキー等をあおっていました。

会社へ行けば、ましだろうと思ったら、更なる悲劇が待ちうけていました。
それは、暖房設備が故障したとのことで、半端じゃなく寒く、事務所の中ではみんな防寒着(いわゆるドカジャン)を着込んでいました。

暖かいと想定して出張したので、そのようなものも持っているわけも無く、翌日より着られるものはすべて着込み、懐炉を体中にくくりつけて、会社へ行きました。
(事務所のなかでは、革ジャンに手袋そして帽子をかぶって仕事をしていましたが、それでも寒かった。)
工場の現場も例外ではなく(戸が開いているので、事務所よりも更に寒い!)現地ワーカー達は、分厚いオーバーコートを着込んで組み立てラインに立っていました。

こんなに寒い昆山ですが、夏になるとこれまた絶えられないくらいに暑いのです。
(暑いではなく、熱いといった方が良いかも!!)


初めて昆山へ行ったのは、夏の終わり頃だったので、9回目からの夏の出張は、ある程度暑さの覚悟は出来ていました。
しかし、上海空港に降り立ち一歩外へ出た瞬間あまりの暑さと湿度で目眩が..

会社の方は、冬と違い冷房が効いていたので事務所の方は取り敢えず普通に過ごせたのですが、工場の現場の方はというと、そこはまるでサウナのようでした。
工場へ続く扉を開け現場へ行き、5分もするとパンツまで汗でびっしょりになりました。
現場で働いているワーカー達はどうかというと、これまた冬と違ってレースのカーテンみたいな薄手の服(つまりスケスケ)を着て仕事に従事していました。
ちょっと目のやり場に困りましたが、現地の人々はそれが標準のためか男女共に平然としていました。

休日に街へ出て観察してみると、工場の現場だけでなく街中を歩いている人たちも結構スケスケでした。

私は、半ズボンにTシャツサングラスといういでたちで、出歩いていましたが、街の人たちには奇異に写ったようでした。

中国での生活(ホテル)


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某社 工場内部

最初に泊まったホテルは、昆山で一番歴史のあるホテルとの事でしたが、初めて泊まった晩に部屋の中にねずみが出没しました。


ねずみ以外にも、色々と不満があったので9回目以降は、別のホテルにしてもらいました。
今度のホテルは、部屋は良かったのですが朝食が飲茶であり、朝から酒のつまみみたいなものを食べる気にもなれず、無理を言ってトーストとハムエッグとコー ヒーを出していただくようにしてもらいましたが、一回食べただけで、二度と食べませんでした。(お察しください。)

朝食以外は快適だったのですが、会社の某役員がホテルとトラブルを起こし、またねずみの出るホテルへの変更を余儀なくされました。

中国での生活(食事編)


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日本料理 源氏

昆山の街には、日本食のレストランが数軒ありました。
『源氏』『飛鳥』『鶴』『大和』など超日本的な名前がついていました。

各店の女性店員は、なぜか一様にもんぺのような着物を着ていました。ちょっと日本を誤解しているかなという感じでした。
彼女達は、そこで日本語の練習(勉強)をして、いつか日本に行きたいと夢を持っていました。

中華料理は当然のことながら、一杯ありかつ安いので、金銭的に苦しくなると良く行きました。
但し、料理の量が多いので、一人で行くととても食べ切れないので、一緒に仕事をしていた仲間と行きました。

いわゆる欧米のレストランは2軒程ありましたが、一軒は高くて美味しくありませんでした。
もう一軒は、現地人相手の店なので、衛生状態は良くないのですが、安さにつられて何度も足を運びました。

一番のお気に入りは、中華でも日本食でもなく、コリアンレストランでした。
(いわゆる朝鮮焼肉)
安くて、まあまあいける味で、飽きもせず連日通ったところ、店のオーナーに顔を覚えられてしまい、行けば特製キムチのサービスがあったり、街で会えば挨拶されたりと。
(異国の地の街中で外人(中国人)に挨拶されるなどとは夢にも思いませんでした。)

日本食 飛鳥で豪遊する日本人

中国での生活(娯楽編)


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通訳の 朴 小姐

昆山の街には、ボーリング場やビリヤードなどの娯楽施設やゲームセンターなどがありました。
ゲームセンターのゲームは日本では見なくなったような古いゲームしかなかったような気が。

滞在中は、日本からスーパーファミコンを持っていきホテルのテレビにつなぎずっとゲームをして遊んでいました。
ドラクエ5などはあっという間に終わってしまい、帰国まで間が持たず結局2回もやってしまいました。

 

わずか一年半の間に14回も中国へ行ってしまいました。
一番ひどいときは、帰国後、中三日で行ったりもしました。
現在はどうかというと、全くありません。なぜなら退職してしまったからです。

その後は?


退職し、すっかり中国の事を忘れていたある日、一冊の週刊誌のとあるタイトルが目につきました。(2002年秋)

「手玉にとられた企業の悲劇」
やはり、私が、出張中に感じていたように、完全に中国に手玉に取られてしまったようです。

試作を頼めば、出来ません!
ねじを頼めば、ありません!
急に呼ばれて、海外出張すれば、国慶節で1week休みです!
元旦から仕事をするというので、出張すれば、やっぱ、休みにしました!

こんな状況を、日本の偉い人達に言っても、馬の耳に念仏。
だから、4億7000万も取られちゃったんでしょうね!
でも、当時の偉い人達が、いまだ健在っていうのも別な意味で凄いですね!


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